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ACORN vol.7 厄介な連中17: 嘘をつくなら墓場まで

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ACORN vol.8 停車場幽霊奇譚

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Character

   Prologue

   1

   2

   3

   4

   5

   Epilogue

あとがき





厄介な連中17





嘘をつくなら

墓場まで





柏枝真郷





Character




遠 とお 野 の 遼 りよう 一 いち 郎 ろう ……………作家



宮 みや 城 ぎ 篤 あつ 史 し ………………遼一郎のイラストレーター兼愛人



遠 とお 野 の 美 よし 雪 ゆき ………………遼一郎の息子



毛 もう 利 り 直 なお 樹 き ………………愛読者



楢 なら 崎 さき はじめ……………セールスマン



曽 そ 我 が 部 べ 綱 つな 彦 ひこ ……………警視庁捜査一課 警部補



高 たか 野 の ……………………警視庁捜査一課 警部



ドイル・アーデン……旅行者



和泉 いずみ 雪 ゆき 乃 の ………………美雪の母



伊 い 藤 とう ……………………医師 遼一郎の友人





   Prologue





(……遺骨になりたい……)

 それが、ここ数日の宮みや 城ぎ 篤あつ 史し の願いだった。

 時は春   武蔵野の原生林に囲まれた広大な霊園を包むのは、しめやかな静寂だった。故人の命日でも、ひっそりと手を合わせるだけの墓参客が多く、彼らの心の声を代弁するかのような線香の煙が、香りを運びながら風にたなびく。

 数え切れないほどの桜の樹々が開花し、桜色に染まった春霞に包まれたかのような幻想的な風景に変わる季節になっても、静寂は破られることはなかった。都内に数あま 多た ある桜の名所が花見客でごった返し、どんちゃん騒ぎの宴会で風情が吹き飛ばされていても、この霊園だけは例外だった。いちおう都立「公園墓地」ではあっても墓石の前で宴会をするのは、罰当たりの極みだからだろうか。

 桜に守られるようにして並ぶ墓石の中には、著名人のものもある。寺社とは違い、宗教は問わないこともあって、高名な画家や作家、果ては政治家まで   世事には疎い篤史でさえ知っている著名人の名前が彫られた墓石もあり、芸術家の中には墓石さえも芸術の域に達した不思議な形のものもあれば、なぜか石造りのミニチュア五重の塔が墓石より高く聳えている墓もある。また、「壁墓地」という、そっけない四角の墓石が壁のように何列も並ぶ一画もある。

 これらの墓石は、もちろん飾りではない。その下には故人の遺骨が埋葬されている。

 なぜ桜がああも美しいのか

 桜の下には骸むくろ が埋まっている   日本には古来からその手の怪談や伝説があるが、今、テラス窓から薄紅色の春霞をぼんやりながめる篤史が考えているのは、まさにそれだった。

 いや、正確に言えば、願望だ。

 墓石の下に埋葬されている骨壺の中の遺骨 になりたい

 いささか突飛な願望かもしれないが、篤史にとっては切実な願望なのだ。

 篤史は左手首を見た。セーターの袖口から白い包帯がのぞいている。これは過去二十三回に及ぶ自殺未遂の名残だ。

 自傷癖とは違うと思う。痛いのは厭だから、自ら傷つけたくはない。未遂に終わった最初の数回は、剃刀で手首を切らずに、睡眠薬を大量に飲んだり(無害な睡眠導入剤だったので失敗)   他のもっと手軽な方法はないかと試行錯誤したものだ。

 しかし、たとえば電車に飛び込めば、遺族に鉄道会社から莫大な損害賠償を請求される。飛び降り自殺も、運が悪ければ通行人を巻き添えにする危険もある。そもそも賃貸のアパートで自殺すれば、事故物件となり、やはり大家から遺族に損害賠償が請求されるだろう。

 要するに、自殺をするにしても、金がかかるのだ。さらには葬式費用もかかる。

 遺族   すなわち篤史の両親や弟には、確執と言えるものはない。両親には、こんな厄介な息子で申し訳ないと思うし、弟もこんな兄貴がいるお陰で彼女に振られそうになったとか、とばっちりの迷惑を被っているから憎まれても仕方がないと思う。そして、これほど厄介をかけているのに、損害賠償だの葬式だのと、さらなる厄介をかけるのは申し訳ない。

 だからこそ、思うのだ。痛みも感じず死ぬことができて、死後の火葬や葬式といった後始末も一切なしに、骨壺の遺骨となってしまえたら、どんなに幸せか   と。

 もちろん、あの霊園には宮城家の墓はないから、入谷にある宮城家の墓の骨壺だ。いや、骨壺を買う金もないから、いっそのこと、あの桜の木の下に密かに埋められている遺体でもいい。墓などいらないし、腐乱も白骨化も一瞬で飛び越して、桜の有機肥料になってしまうのが、文字どおり後腐れがなくていい。

 しかし、超能力が出てくるSFや、魔法が出てくる童話などの世界でない限り、実現不可能だろう。単に死にたいだけなのに   この世から消え失せたい; だけなのに、なぜこんなに手間暇や費用がかかるのか。

(……理不尽だ……)

 たった一つの、ささやかな願いなのに   叶う見込みがまったくないなんて、なんて理不尽なんだろう。

 かくして篤史は、恨みがましい眼でテラス越しに霊園の桜をにらみつつ溜息をついていたのだったが





    1





「ごめんくださーい」

 玄関から男の声がした。ちなみにチャイムは壊れている。壊れているのはチャイムだけではなく、築八十年を優に超える洋館は、霊園に併設された幽霊屋敷にしか見えないだろう。実はあの霊園が造設される前の大正時代、この武蔵野台地が春にも鬱蒼とした原生林しかなかった大昔に、旧華族が別荘として建てたものらしいのだが、そんな築順を今でも憶えている者が存命しているかどうか。

(……電報の配達じゃなさそうだな)

 篤史は咄嗟にそれだけ判断して、走り出した。電話があっても、なぜか定期的に電報が配達されるのだが、配達員はいつもスクーターに乗っているし、一刻も早く立ち去りたいとばかりに切羽詰まった呼びかけをするのだ。今の声は、もっと余裕がある。

 誰にせよ、これ以上の大声が響いては困る。この館の現在の主   超マイナーなミステリ作家、遠とお 野の 遼一郎りよういちろう が執筆中なのだから。

 篤史は居間を飛び出し、なけなしの体力を振り絞って板敷きの廊下を玄関ホールへ走った。

「はい、どちらさまでしょう?」

 土間に脱ぎ散らかしたサンダルを突っかけながらドアを開けると、白っぽい作業着姿の男が立っていた。

「ご多忙のところ、すみません」

 男は篤史よりやや年上の三十半ばだろうか。にこにこ笑顔で、手にしたクリップボードにペンでチェックを入れ、「ええと、遠野様は   二十年ほど前に、バスルームのリフォーム工事をなさってますね?」

「……二十年前……ですか?」

 篤史は面食らった。居候になってまだ数年だから知るはずもない。遼一郎も二十年前はやっと二十歳過ぎ   もしかしたらニューヨークに留学中の頃ではないだろうか。

「およそ二十年です」

 男は話を続けた。「記録によれば、十六年ほど前ですね。とにかく、その工事を請け負った工務店が数年ほど前に廃業しまして。その後、この工務店が施工したお宅で、やたらと不具合が発見されたわけですよ。酷い例では、バスルームの床が抜けたとか。それもマンションの五階だったために、真下の四階の部屋が水浸しで、修繕費だけでなく多額の賠償金まで支払わなければならなかったとか」

「……はあ……。それは大変ですね……」

 ちんぷんかんぷんな話だが、篤史はとりあえず相槌を打ってみた。

「そうなんですよ」

 男はおもむろにうなずいた。「とにかく酷い業者だったようなんですが、困ったのは施工主さんたちで。苦情を言おうにも工務店そのものがなくなっているわけですから、結局、メーカーが苦情の窓口になってしまったわけですよ。有名な大手メーカーばかりですし、製品自体には問題がないのに」

「……はあ……。それは大変ですね……」

「そう、大変なんです。メーカーにとっては、お門違いの苦情ですからね。それで、弊社が無料で点検することになったんですが   まずは、バスルームを拝見させていただけますか?」

「……は?」

「ですからバスルームの点検を。無料ですし、何か不備があっては困るでしょう? 水漏れは水道料金も馬鹿になりませんしね」

「はあ……たしかにそうですね」

 篤史は返答に詰まった。実際、バスルームの蛇口はパッキンが老朽化したのか、ときどき水滴が垂れてはいる。とはいえ、ただの居候には勝手に裁量できない事態だ。

「今、バスルームをお使いですか?」

「いえ……でも……」

 俺は留守番みたいなものだから   と答えようとしたとき、背後から声が響いた。

「点検してもらえ」

 地獄から響くような声の主は、振り返らなくてもわかる。遼一郎だ。

 クリップボードから顔を上げた男の表情も、凍りついている。しかし、目を瞬しばたた き、必死に職業意識を取り戻そうとするかのように首を振り、

「では、拝見させていただきます」

 上がり框にクリップボードを置き、スニーカーを脱ごうと屈み込む。遼一郎の声がさらに不気味に響いた。

「なにしろ頻繁に血の海になっているからな」

「……え?」

 男が顔だけ上げた。片足を曲げてスニーカーに手をかけた不自然な体勢のまま固まっている。「今、何の海と?」

「血の海だよ。血液。英語でblood。鮮血が滴り落ちて溜まった状態の比喩だ」

 遼一郎の手が篤史の左手首を掴み、持ち上げた。「血の出所は、この手首だが」

「……手…首……」

 男の眼がゆっくりと篤史の手首に移動し、セーターの袖口からのぞく包帯で止まった。男の頭の中では「バスルーム」と「血の海」と「手首」の三つの単語がジグソーパズルのように組み合わさろうとしていることだろう。完成したパズルでは、朱に染まった剃刀を握った篤史の左手首から血が滴っているかもしれない。「……血の…海……」

 呆然とつぶやく男の顔から血の気が引いた。次の瞬間、厳かな鐘の音が響き渡った。

 年代物の振子式大時計グランド・ファーザーズ・クロツク が午後三時を告げる音だ。時計としての正確さは皆無だが、おどろおどろしさを助長させる役には立つ。おんぼろ洋館の玄関ホールに響く二回目の音と同時に、不自然な恰好で硬直していた男がひっくり返った。

「怪我はないかね?」

 すかさず遼一郎が駆け寄ったが、「親切」や「気配り」という単語は遼一郎の辞書にはないはずだ。案の定、遼一郎は男を助け起こしもせず、B級品のリーバイスに包まれた長い脚を屈め、上がり框に置きっ放しのクリップボードを拾い上げた。「株式会社竹石工務店   江東区。山手線の反対側から、わざわざご足労いただいたわけか」

「……弊社の営業範囲は広いので」

 男は顔をしかめつつ腰をさすりながら立ち上がったが、遼一郎がクリップボードに挟んだ用紙をめくり始めたのを見て、慌てて手を伸ばした。「返してください」

「断る」

「……弊社の企業秘密ですから」

「詐欺の被害者候補リストが企業秘密かね」

 用紙をめくる遼一郎は薄笑いを浮かべている。さりげなく前髪がかかる白皙の額、日本人離れした彫りの深い顔立ちは端整すぎて、ハンサムというより東欧の吸血鬼伝説を彷彿とさせる。極めつきが、視線で射殺せそうな眼光の鋭さだ。

「……それは……言いがかりで……」

 血の気が引いていた男は、いまや顔面蒼白だった。まさに蛇に睨まれた蛙、すくみ上がって身動きができないどころか呼吸困難に陥りそうだ。

「点検してくれるのではなかったのかね?」

「それは……後日   そう、後日」

 男の顔にわずかに血の色が戻った。溺死寸前に掴めそうな藁を一本だけ発見したような表情だ。「後日、あらためて弊社の技術者を連れてお伺いいたしますので」

「君は技術者ではないのか?」

「そうですが、もっとベテランの、『給水装置工事主任技術者』の資格を有する技術者のほうが、もっと詳しく問題点を指摘できるのではないかと存じますので」

 これぞ起死回生の名案とばかり、男は立て板に水のごとく喋りまくると、遼一郎が握ったクリップボードに手を差し出した。「弊社に戻ってから技術者と相談しますので、それをお返しいただかないと」

「では、これも後日、返却することにしよう」

 遼一郎はさっさと踵を返し、廊下を立ち去っていった。

「え? でも……」

 土間に取り残された男は、遼一郎の広い背中を呆然と見つめたまま、金魚のように口をぱくぱくと動かしているだけだ。

「どうも済みません」

 篤史は、そう言うしかなかった。相手が悪かったね   内心で同情しつつも、口に出す度胸はない。良心の呵責から気の毒そうな表情をつくったつもりだったが、

「……あ、ええと、はい。こちらこそ済みませんでした」

 男は引きつったような作り笑いを浮かべ、篤史の左手首の包帯にちらりと視線を走らせてから、慌てたように回れ右をして玄関ドアから飛び出していったのだった。

(まあ……たしかにバスルームを血の海にした張本人は俺だから……)

 閉まった玄関ドアを見つめ、篤史がそう自分に言い聞かせていると、

「……これは、ようこそいらっしゃいました」

 ドアの向こう側から脳天気な声が聞こえてきた。「何か御用ですか?」

 声だけでも、笑顔で揉み手する商人を想像できそうな腰の低さだが、先ほどの男が絶句しているのが想像できる。

「……ええと……」

「おや、どこかでお目に掛かったことがありませんか」

「……え?」

「そうだ、楢なら 崎さき さんでしょう? 楢崎はじめさん」

「違います。他人の空似ですよ」

 きっぱりと否定する声だけが大きく響き、その後、男の声は聞こえなくなった。数秒後、玄関ドアが開き、縞の和服に羽織姿の男が入ってきた。

「おや、篤史さん」

 慣れた裾すそ 捌さば きで振り向いた男は、馬の尻尾のように三つ編みにした長髪だが、江戸時代から続く老舗呉服屋の息子でもある。名前は毛もう 利り 直なお 樹き 。本業は時代劇役者   本人の弁に寄れば、あくまでも「時代劇」限定で、脇役どころか斬き られ役、つまりは端役しか演じたことがないらしいのだが、たとえ主役であっても現代劇に出演するのは断るという確固たるポリシーの持ち主だ。負け惜しみではなく、本気で斬られ役に心血を注いでいるらしい。「桜餅が美味しい季節になりましたね」

 呑気そうな笑顔で手に提げた風呂敷包みを掲げる姿は、やはり物騒な斬られ役には見えない。お調子者の町人といった軽い雰囲気だが、衿の合わせからのぞいているのは、本物の匕首あいくち の柄だ。

「あの作業着の男と知り合いか?」

 遼一郎がまた廊下に出てきた。左手にコードレス電話の子機を握っている。居間にいたのだろうか。

「今しがたお帰りになった方ですか?」

 毛利が玄関ドアを振り向いてから、曖昧に首を傾げた。「知人に似ていたのですが、他人の空似のような気もしますし……」

「役者仲間か」

「さすが遠野センセ」

 毛利が尊敬を込めた眼で見上げた。「よくおわかりですね」

「演技力はともかく、集中力はありそうだ。芝居中はその役になりきって、脚本にないアクシデントが起きても、その役として応対する」

「ますます感服いたしました。そのとおりです。役者仲間では憑依型と言ってましたが   どうして、おわかりに?」

「ついさっき、その演技を見たばかりでね」

 遼一郎は軽く肩をすくめ、居間に戻っていった。「いわゆる『点検商法』という、限りなく詐欺に近い訪問販売だ。彼が想像できる範囲での『水道工事業者のセールスマン』になりきっていた」

「あれ、芝居だったの?」

 思わず篤史は口を挟んでしまった。「仕事熱心なセールスマンに見えたけど」

「もともとセールスマンは多少の芝居っ気が必要だ。自分ではガラクタとしか思えない商品でも、いずれ家宝になりそうな逸品として売り込まなければならない。セールスマンが商品を信じてないと客に見透かされたら、まず売れまい」

「詐欺師にも似てますな」

 しかつめらしく相槌を打った毛利が苦笑した。「中には詐欺まがいの商品を売る商人もおりますが……。当店は老舗の呉服屋としての誇りにかけても、お値段に見合う品をご用意いたしますが、お店によっては大量生産の安物に高値をつけたりするところもあるようで。機械での型染めなのに、友禅だと勘違いさせたり。目利きのお客様ならすぐに見破れるのですが   これも詐欺でしょう?」

「その店の売り子が目利きかどうかにも依るな。品物と値段が不釣り合いなのを承知の上で売るのであれば、詐欺だろう。素人の雇われ店員が、上司に命じられるがまま売ったのであれば、知らずに詐欺の片棒を担いだだけになる。商品に『友禅』と不当な表示があったのであれば、『知らなかった』では済まされないはずだが   法律上はともかく、詐欺師と詐欺まがいの商品を売るセールスマンを区別するのは、故意か過失かの違いに近い」

 考えをまとめるかのように説明した遼一郎が、逆に毛利に尋ねた。

「その楢崎という役者と、最後に会ったのは?」

「最後に……昨年の……そう、夏です。擦れ違っただけですが」

 毛利がふたたび苦笑した。「あのときはもう格が違いましたから。楢崎さんは当時、売れっ子だったんですよ。役者としてでなく、歌手として   ええと、そう、ぶれいく したわけです」

「複雑な事情のようだな。居間で詳しく聞くとしよう」

 遼一郎があっさりと居間へ戻っていく。毛利も勝手知ったる他人の家とばかり、草履を脱いで上がり、居間へと廊下を辿っていった。

(……執筆は……休憩かな)

 とりあえず篤史には累が及ばないようなので居間に戻ると、遼一郎はソファにゆったりと腰を掛け、毛利がだるまストーブの上にのった薬缶を取り上げ、甲斐甲斐しくお茶を淹れようとしているところだった。

「複雑というより、拙者も噂でしか事情を知らないので、真偽は定かではないのですが……」

 湯飲み茶碗を遼一郎の前に置いてから、床に正座して風呂敷包みを開いた毛利が、和菓子店の紙包みを取り出しながら軽く溜息をついた。「ぶれいくしたのが、劇中歌だったのは確かです」

「劇中歌   ミュージカルだったのか? それともTVドラマの挿入歌、あるいは歌手の役?」

「それです、歌手の役です。さすがセンセ」

 毛利が膝を打って、顔を上げた。「街角に立って、自作の歌をギターの弾き語りで歌う場面がありまして。主人公の女の子が失恋したとき、その歌に慰められるわけです」

「彼は主役ではなかったのか」

「脇役でした。それも一回だけの出演だったのに、歌が人気を博しまして。レコードも発売されて、一時は入手困難になるほどの大ヒットだったとか」

 典型的な一発屋か   と、篤史は想像したものの、この屋敷に居候してから、音楽を含めて世間の流行に疎くなっているから、どんな歌なのか見当もつかない。それは遼一郎も同じはずだが、茶を飲みながら興味深そうに尋ねた。

「ドラマの中で歌ったのも一回だけか? 一回の放送で何度か繰り返し歌ったのか?」

「……あいにく拙者はその放送を見なかったので……。それが重要なのですか?」

「印象に残る度合いが多少は変わる。一度きりでも歌の途中でカットせず最後まで歌わせれば、また変わる。部分的なフレーズだけは耳に残っていても、曲の全部は知らないケースがあるのと似たようなものだ」

「なるほど……CMソングもそうですな」

「そのドラマにその役者を起用した制作側が、歌もヒットさせたかったのか、それとも歌がヒットしたのは単なる幸運だったのか   あるいは小賢しい小細工など無用の、素晴らしい歌だったのか」

 皮肉そうに笑った遼一郎がさらに尋ねた。「ドラマの中では自作の歌だったわけだが、実際に楢崎とやらが作詞作曲したのかね?」

「そうらしいです。それも人気を後押ししたようで」

 毛利がうなずいた。「天は二物も三物も与えることもあるのでしょうね」

「器用貧乏に陥る危険もあるが。それで、歌がヒットした後は?」

「その後もトントン拍子だったわけですが   たしか、未発表の曲が幾つもあるとかで、それを使った舞台が企画された   とまでは記憶しております。最後に楢崎さんをお見かけした夏頃のことですが」

「歌を使った舞台   コンサートかミュージカルか?」

「ええと……その中間のようなものと申しましょうか。歌の合間に寸劇を挟むような」

「なるほど、短期間の準備でミュージカルは無理だな。だが、企画されただけか? 公演は実現したのか?」

「いえ……たぶん流れてしまったのではないかと……」

 毛利が気の毒そうな溜息をついた。「拙者もそれ以上は知らないのですが、いつの間にか楢崎さんのお名前を耳にすることもなくなっていました。思い出すことさえなく   つい、先ほどまで」

「芸能界から消えたわけか」

「世間的にはそうなるのでしょうが……。たとえば拙者のような無名の斬られ役でも、いちおう芸能界に存在してはいるわけですから、消えたのではなく、何か別の活動をなさっているのかと……」

 嘆息するような毛利の声を聞きながら、篤史は自分も似たようなものだと内心で苦笑していた。遼一郎の作品が雑誌に掲載されるときに篤史の挿絵も掲載されるから、いちおうイラストレーターとして存在はしている。とはいえ、遼一郎も超マイナーだから、知名度に関しては「知る人ぞ知る」   いや、むしろ知っている人そのものが稀まれ な存在だ。行方不明になっても、気に掛ける人はさらに稀だろう。

 だが、TVでも引っ張りだこだった俳優や歌手が、水道工事業者のセールスマンに転身したのなら、気づく人も多いのではないだろうか。ゴシップ記事にもなりそうなものだが

「去年の夏から一年も経ってないが、そんなに短期間で視聴者の記憶から忘れられるような変貌でも?」

 遼一郎も似たようなことを考えたらしい。その問いかけに、毛利が大きくうなずいた。

「一年前は長髪でした。街角で弾き語りする歌手という役柄のせいもあって、長髪のイメージで憶えてらっしゃる方が大半かと。拙者が気づいたのは、まだ楢崎さんの髪が短かった頃も存じてますし、時代劇で髷まげ の鬘をかぶった顔のほうが記憶に残ってるからではないかと」

 ただ髪が長いだけでなく、無精して床屋に行かなかったような、ざんばらの髪が額や頬を隠しているような髪型だったのだと毛利が手振りを交えて説明した。「不潔といっては失礼ですが……拙者は今の髪型のほうが清潔感があって良いと思いますけどねえ」

「一昔前の学生の長髪のようなものか」

 遼一郎が薄く笑った。どことなく懐かしそうだった。「就職活動のために髪を切って新品のスーツ姿になると、まったく別人に見えたものだ。では、いわゆる芸能事務所に所属していたのではないのか?」

「それが……どうも事務所の大御所と喧嘩してクビになったとか。それで干されたという噂も耳にしましたが……あくまでも噂なので」

 毛利も半信半疑なようだ。「火の気がなくても煙が立っているかのように報じるデタラメな週刊誌と同程度の信憑性だと、お受け取りいただければ」

「不確実でも多少は事情がわかった」

 遼一郎が鷹揚にうなずき、湯飲み茶碗に手を伸ばす。毛利がこれで役目を果たしたとばかりに、いそいそと和菓子屋の紙包みを開くのを見て、遼一郎がつぶやいた。

「長ちよう 命めい 寺じ か」

「江戸っ子ですから」

 毛利が嬉しそうに胸を張った。「まあ京の道どう 明みよう 寺じ もよござんすが、江戸っ子はやはり長命寺ですよ。餅は粋に薄く、漉し餡もこそこそ隠れたりせず、すっきりと顔を出す。実家の近所に昔からある小さな和菓子屋のものなんですが、実は桜餅では隠れたる名店でして。桜葉漬けは大島桜の桜の葉を毎年、五月頃に塩漬けした自家製で、香りも柔らかさも格別。もちろん肝心の餅も中の餡も厳選した素材でして、店の裏口を通りかかると小豆を煮る匂いが、こう……手招きするように漂ってくるんですよ」

 その匂いを思い出すか鼻をひくつかせながら、毛利が嬉々として遼一郎に桜餅を差し出した。





    2





 同時刻   千代田区霞ヶ関、桜田門の向かい側に聳える高層ビル   要するに警視庁本庁舎の刑事部捜査一課では、オリーブ色の高級スーツを身にまとい、金縁眼鏡をかけた三十過ぎの男が、洒落た金鎖をしゃらしゃらと音をたてて揺すりながら窓の向こうに広がる満開の桜に視線を向けているところだった。

 皇居外苑から皇居、北の丸公園まで薄紅色の絨毯を敷き詰めたかのようだ。お堀の水が陽光を弾き、微風が桜吹雪を撒き散らす。幻想的なまでに美しい景色だ。

 美しいものに眼がないのは、彼   曽そ 我が 部べ 綱つな 彦ひこ の信念にも近いから、一年に長くても二週間足らずの儚い「美」を心から堪能しているかにも見えるが、実際のところ綱彦の眼は眼下ではなく、上空の青空に向けられていたのだった。

 正確に言えば、涯はて のない青空が続く地球の裏側、アメリカ合衆国のニューヨーク市を想像していたのだ。そして、そのニューヨークの、市警に務めるドイル・アーデン警部を

 アーデン警部が東京を訪れたのは、今月中旬、まだ桜の蕾も硬く、寒の戻りで雪さえもちらついた日だった。捜査や会議での出張ではなく、私用での来日だったらしい。名目上は、ただの休暇だ。

 日本でも屈指の大企業、曽我部物産の御曹司でもある綱彦は、世界各国の警察関係者が来日するとなれば、極秘に情報を入手できるよう各種ネットワークを構築してある。世界の主要都市に目立たない事務所を構える曽我部グループの調査機関に所属する調査員は、平和ボケした日本の警察官の何倍も優秀だ。今回も、アーデン警部が高たか 野の 警部(綱彦は警部補だから、いちおう上司になる)と、警察官の国際射撃大会を契機に知人になったことも報告してきたし、アーデンの義父(アーデンは養子だったらしい)が、政治家出身でニューヨーク交通警察局の局長を務めたのち勇退し、現在も市警と政界の両方に強力な影響力を持っていることまで調べ上げてきた。

 さらにアーデンは役職なしの警部だが、無能なわけではなく、むしろ有能   内勤が嫌いで現場で捜査をしたいがために昇進を固辞してきただけだし、彼の長年の相棒だったローゼンランド刑事も警部に昇進し、現在は十四分署の刑事課課長になっている。

 そんなアーデンが「ただの休暇」で来日するはずがない   綱彦は直感的にそう確信した。だから、まずは挨拶をと、部下を引き連れ、成田空港まで丁重に出迎えに行ったのだ。事前に写真で容姿を憶えてはいたが、税関から出てくるアーデン警部は、見間違えようがなかった。

 わずかに白髪が交じった黒髪は日本人と同じでも、彫りの深い顔立ちと頭身とうしん の高さだけでも群を抜いて見えた。アクアスキュータムのトレンチコートも、まるで彼のためにあつらえたかのように似合っていた。

 しかし   綱彦がアーデンに声をかけようとしたその刹那、なぜか、あの遠野遼一郎が割り込んできたのだった。

「コミックを日本語で言うと?」

「マンガだな」

 英語で暗号のような会話を交わしたのち、二人は綱彦を完全に無視して立ち去っていったのだ。まったく予想外の展開だった。

 そもそもアーデン警部と遼一郎が知り合いだったことすら予想外だった。ニューヨークの調査員からの報告書に名前だけでも記載されていた日本人は、高野警部だけだ。とはいえ、高野警部と遼一郎は知り合いだから、その縁で知り合った可能性はあるだろう。友達の友達の芋づる式友達というやつだ。

 その後、アーデンは帝国ホテルに一週間ほど滞在したのち、先日帰国したのだが   その間、何をしていたのかは不明だ。駄目もとで調査員に尾行を命じたのだが、日本の警官より優秀な調査員でも百戦錬磨のニューヨーク市警の警部には太刀打ちできないらしく、あっさりと撒かれてしまったのだ。

 確認できたのは、高野警部と会ったらしいことだけだ。何の用だったのかも不明だが、高野警部は非番だったから、公務ではなく私用だったのだろうか

「曽我部警部補くん、優雅にお花見かね?」

 背後から嫌味な声が聞こえ、綱彦は内心で舌打ちしてから振り返った。

 まるで暴力団関係者が押し入ってきたかのような、四角い顔に分厚い唇、パンチパーマをかけた背の低い男が仁王立ちしている。「大仏」という綽あだ 名な で噂されることもあるが、外見のイメージは近いかもしれない。だが、言動は程遠い。そして、この男こそが、高野警部なのだ。

「いえ、考え事を」

 直属の上司ではなくても、いちおう階級的には上役になるので、綱彦は仕方なく答えた。いや、探りを入れるチャンスではないか。「先日、父の取引先の関係でシカゴから来客がありましてね……。いえ、それは切っ掛けに過ぎませんが、とにかく警部ほどの銃の腕前になるには、どれほどの努力が必要なのかと」

「……話が分裂してるな」

 高野は細い眼をさらに細めた。「おだてるつもりなら、もう少し辻褄を合わせるべきではないかね?」

「おだてる? 純粋に賞賛しているんですよ。来客   もちろんアメリカ人ですが、彼も警部が国際大会で何度も入賞したと聞いて驚いていました。彼は開拓者の子孫であることが誇りなんですよ。銃規制の反対論者でもあり、民間人が銃を携帯するのは当然の権利だ、という持論の持ち主です。銃も常に携帯しているそうですが、さすがに日本には持ち込めない。それが不満なようで   いくら日本が安全な国だとはいえ、犯罪がゼロなわけではないだろう。銃が禁止されていても、密かに所持している犯罪者もゼロではないだろう。どうやって我が身を守ればいいのか   と、議論をふっかけられましてね」

 綱彦は早口で   かつ、わざと枝葉末節を加えた回りくどい説明をし続けた。案の定、高野は、じれったそうな表情で大袈裟に手を振った。

「途中経過は省略しろ。要領の悪いやつだな。それで、警察官の射撃国際大会の話になったわけだな?」

「そうです」

 綱彦は大きくうなずいた。高野の綱彦に対する評価が下がろうとも、意に介する必要もない。「日本の警官もアメリカの警官に引けを取らないと知って感心していましたよ。まあ、商談の相手ですから、こちらの自慢話だけするわけにもいかず、適度に留めまして   そう、警部が国際大会でお知り合いになったというニューヨーク市警の警部のことも少し話題にしました。好敵手だと   残念ながら、咄嗟に名前が出なかったのですが」

「ニューヨーク市警の警部   アーデンのことか?」

「そう、アーデン警部でしたか。化粧品のメーカーと同じ苗字だとまでは憶えていたのですが」

「アーデンなんて名前の化粧品会社があるのか」

「エリザベス・アーデン   アメリカの会社ですが、カナダ出身の創業者の名前そのままです。といっても、元は違う苗字で、テニスンの詩『イーノック・アーデン』から苗字をもらったとか、近くの農場の名前が『アーデン』だったからとか、改名には幾つかの説があるようですが、遭難して無人島に流されて十年も帰郷できない間に妻子を他の男に取られてしまった哀れな水夫の物語詩は化粧品とは無縁でしょうから、後者かもしれません。ともあれ、フランスからレジオンドヌール勲章も授与されてますよ」

「水夫? アメリカにカナダにフランス?」

 高野には理解の範囲を超えた話題だったらしい。忌々しげに太い首を振り、「まあ、化粧品会社なんざどうでもいい。アーデンがどうかしたのか?」

「ですから、好敵手だという話を。先日も来日なさいましたよね?」

「ああ……まあな。ただの休暇だが」

 そこで高野はなぜか思い出し笑いをした。「東京観光の途中で、ニューヨークで発生するかもしれない事件を見抜いて、国際電話で市警に連絡し、見事、未然に食い止めたこともあったらしいがな。休暇中も職務を忘れん有能な警察官だ」

「東京観光の途中で、ニューヨークの事件ですか」

 今度は綱彦が面食らう番だった。日本人がニューヨークで事件を起こす計画でも立てていたのだろうか?「アーデン警部は日本語ができるんですか?」

「挨拶程度だな」

 高野の分厚い唇が嬉しそうに膨れている。「まあ、君には難しかったかもしれんがね。東京観光に来ているニューヨーカーは、アーデンだけではなかった、ということだ」

 からからと高笑いを残し、高野は自分のデスクへと戻っていった。

 綱彦は窓をにらんだまま歯ぎしりするしかない。察するに、観光中のニューヨーカーたちの会話から犯罪の兆候を掴んだということか。瓢箪から駒、犬も歩けば棒に当たる   偶然が重なっただけにせよ、アーデンはやはり有能な警部なのだろう。少なくとも高野よりはマシなはずだ。

 綱彦も窓辺から離れ、業務に戻ろうとした。部下の報告書をチェックするだけの簡単な仕事で、簡単だからこそ逆に才能の無駄遣いでしかないのだが

(……O God Almighty, blessed Saviour……)

 ふと、そんなフレーズが脳裏に甦った。おお全能なる神よ、聖なる救世主よ

 テニスンの『イーノック・アーデン』の一節だったろうか。

 そうだ、たしか無人島から救出されて十年ぶりに帰郷したイーノックが、妻の再婚相手の家をこっそりとのぞきこみ、暖かい暖炉を囲んだ妻や子供たち   再婚相手との間に生まれた幼子もいた   の幸せそうな姿を見て荒野へ逃げ出し、絶望の中で神に祈る一節だ。



  ……give me strength

  Not to tell her, never to let her know.

  Help me no to break in upon her peace.



  我に強さを与え給え

  彼女に告げず、決して彼女に知らしめず

  彼女の平穏を壊さざるよう我を助け給え



        ("Enoch Arden" by Alfred Tennyson)



(まあ、アーデン警部には無縁そうな詩だな)

 綱彦は苦笑しつつ、デスクに戻った。哀れなイーノック・アーデン   ヴィクトリア朝時代の英国の法律には詳しくないが、現代なら消息不明で十年も経てば死亡手続きもできるし、再婚するのも自由、不倫にも重婚にもならない。とはいえ、無人島での孤独な十年に耐え、妻や子供たちと再会する日を夢見てきた男には残酷すぎる現実だ。

 それでも再会せず、生還を妻に知らせることもなく、黙って立ち去ることを選択したイーノックは、その辛さに耐える強さが欲しいと神に祈った。「強さ」なのだろうか?

 妻の再婚相手   イーノックにとっても幼馴染みだった   は、たしかに経済的にも恵まれ、妻だけでなく、イーノックの子供たちをも慈しんでくれるような器の大きさもある。無一文で、心身共に疲弊して帰郷したイーノックには太刀打ちできない相手かもしれない。だから、黙って引き下がるしかないと考えたのだろうが、あきらめに過ぎないのではないか。その絶望をバネに奮起し、いつか成功して妻子を奪い返してやると決意するほどの覇気や気概も、「強さ」だと思うのだが

(アーデン警部なら、後者の「強さ」を選びそうだ)

 もちろん綱彦も同じく後者を選ぶ。仮定の話ではなく、実際に、恋人を奪われた経験もあるのだ。奪われた恋人は宮城篤史、そして、奪ったのは遠野遼一郎

 無人島に漂流したわけではないが、曽我部グループの後継者よりも警察官を志したのが父の逆鱗に触れ、父の持てるコネと権力で島流し   日本の僻地にある警察署を転々とさせられていたのだ。そしてやっと東京の本庁に戻ったときには、篤史は東京都下のおんぼろ洋館で、あの遠野と暮らしていた……。

(僕は絶対にあきらめない)

 そう、必ずや、あの遠野から篤史を取り戻してみせる。

 綱彦は、あらためて心に誓うのだった。





    3





 毛利が楢崎を連れてきたのは、その翌日   遅めの朝食が済み、篤史が掃除をしようかと、箒と塵取りを手にしたときだった。

「昨夜、毛利呉服店に電話がかかってきまして。遠野センセに、ぜひともご相談したい、と   」

 そんなふうに説明する毛利の背後に隠れるように縮こまっている楢崎は、昨日の作業着姿ではなく、ジーンズにダウンパーカという、ごく普通の若者らしき恰好だった。

 サングラスや帽子といった芸能人必須アイテムもないが、毛利と一緒に中央線に乗ってきても、他の乗客に気づかれなかったのは、毛利の三つ編みに和服姿のほうが目立ったからだろうか。気づかれても「似た人がいるな」程度だったのかもしれないが。

「毛利に頼んだ理由は?」

 遼一郎は居間のソファに座ったまま、コーヒーカップを片手に朝刊を読んでいるところだった。「昨日と同じように玄関ドアをノックするだけで済むはずだが」

「……昨日は……水道工事の営業員としての役目がありましたから」

 おずおずと、毛利の背後から答える楢崎の声は、聞き取るのが難しいほど小さく、昨日とは別人のようだった。「マニュアルのセールス・トークを台本のつもりで憶えて、演技していたつもりで……。でも今日は、素す の僕ですから、紹介してくれる人が必要ではないか、と……。毛利さんとは以前に何度かご一緒したことがありましたし、実家が浅草橋の老舗呉服店だと聞いていたので、電話帳のタウンページで調べて……」

「電話帳で調べられる点に気づいたのは好判断だが、そもそも紹介者が必要だと考えた理由は?」

「……その……作家先生でいらっしゃいますから」

「それを知ったのはいつだね? 昨日、ここへ来たときからかね? それとも毛利に電話をしたときか?」

 畳みかけるような遼一郎の質問に、楢崎は返答に詰まったようだった。そもそも超マイナーなミステリー作家の名前を知っていること自体が異例で、これまでの稀少な例外は、その毛利ただ一人だけなのだ。

「……ええと……」

「毛利に電話したときではないかね?」

 遼一郎は追及の手を緩めない。

「申し訳ございません!」

 毛利が遼一郎の前に座り込み、深々と頭を下げた。「拙者がお教えしました」

「では、私に紹介してほしいから、毛利呉服店に電話をかけた、という話は辻褄が合わないな。動機と行動の順序が逆だ。察するに、別の用件で毛利に電話をかけ、毛利が私に相談してはどうか、という話になったのではないかね?」

「さすがセンセ。ご明察のとおりです」

 毛利が頭を下げたまま答えた。「どのような用件かは、拙者の口から申し上げるわけには参りませんが……」

「では、楢崎君本人から説明してもらおうか」

 遼一郎の鋭い眼が向けられ、呆然と立ち尽くしていた楢崎が慌てたように毛利の横に正座した。

「ええと……申し訳ありません。嘘をつきまして……」

「謝罪よりも、端的な説明を聞きたい。電話での毛利への用件は?」

「……用件……。昨日、工務店に戻ったら、上司に叱られまして。『クリップボードに挟んだままの書類を取り戻すか、クビになるかのどちらかだ』と言われたので……その相談を。毛利さんはお知り合いのようだったので、どんな方なのか教えてもらおうと……」

「拙者は、偉大なるミステリー作家のセンセであらせられる、と返答しました」

 毛利が顔を上げ、尊敬の眼差しで遼一郎を見上げた。「それから、書類をどうするのかは、遠野センセが適切な判断をしてくださるはずだから、安心するようにと。また、詐欺まがいの工務店と縁を切れるのであれば、クビになるのも良いのではないかと申しました」

「なるほど。それで、楢崎君は?」

「……僕も……」

 楢崎が眼を伏せたまま答えた。「クビになっても良いかと思い直しまして……。もともと金を稼ぐ手段でしかなかったわけですし……。確かに詐欺まがいのセールスにも多少の後ろめたさはありました」

「『多少の』後ろめたさか」

 遼一郎が薄く笑った。「セールス・トークが成功したときは、達成感もあったか」

「……達成感……はい。ありました。お客さんを騙すようなものですから、いけないことだと良心の呵責も感じるのですが、でも……僕のセールスマンとしての演技が成功したのだと嬉しいときもあって……」

 唇を噛んでから、楢崎はまた口を開いた。「役者も、ある意味では、観客を騙すようなものだと自分に言い訳したりも……」

「ある意味では、正しい」

「……正しいですか?」

「『騙す』とは、嘘を本当だと錯覚させる行為のみを言い、善悪の判断は含まれない。TVドラマにせよ舞台にせよ、客は騙されたがっている。見事に騙されれば、喝采を受ける。被害者は存在しないかに見えるが、有料の舞台であれば、あまりにも芝居が下手で『詐欺だ、金返せ』と罵倒したくなるケースもあるから、これも被害に近い。騙されなかったことで被害者になるというのも奇妙だが、一方、詐欺にも、被害者が気づかずにいるケースもある。役者と詐欺師の相違点は被害者の認識だろう」

 なめらかな弁舌で遼一郎が屁理屈をこねまわす。天の邪鬼の遼一郎らしい理屈で、篤史もいちおう慣れてはいるが、楢崎は初めてなので、あっけにとられている。

「……被害者の認識……ですか」

「海外ミステリの古典的作品にも例があるが、『誰もいない森の奥で木が倒れたとき、倒れる音はしたと言えるのか?』   どう思うね?」

「……音……ですか」

 かすかに瞬きしてから、楢崎が理解したようにうなずいた。「誰もいない森とは、聴く人間がいないということですよね? 聴く者がいなければ、『音がした』とは言えないかもしれない?」

「そうだ。物理的には『音がした』と言えるが、人間の感覚で考えれば、誰にも聞こえない音は、無音も同然ではないか、という例えだ」

「でも   聴覚があるのは人間だけではないですよね? 鳥や虫や……誰もいない森でも鹿やリスがいたかも、という考慮は?」

 おずおずと、しかし少しずつ、楢崎の声がはっきりとしてきた。奇妙な謎々に興味を惹かれたらしい。

「そこまで考慮するなら、森のすべての生き物まで範囲を広げるべきだな」

 遼一郎は珍しくストレートに答えている。「周辺の樹木にも倒れた音   振動は伝わっただろう。倒れた際に幹がぶつかった木もあるかもしれん。折れた枝で鹿やリスが怪我をしたかもしれん。突き詰めていけば、こんな疑問も出る   そもそも木は、なぜ倒れたのか? 倒れた原因は?」

「……たしかに」

 楢崎が大真面目にうなずいた。「大地に根を張っている木が倒れるには原因があるはずですね。枯れたとしても、そう簡単に倒れるものではないでしょう。強風とか、動物がぶつかったとか、何か原因があるはずですね」

「人為的な原因であれば、時限爆弾が仕掛けられていた、というケースも考えられるな」

 遼一郎は物騒かつ現実的な例を口にしている。「爆弾を仕掛けた犯人は森の遠隔地にいるから『誰もいない森』という前提条件は成立し、音も聞こえないはずだが、一方、爆破が成功したのか、木が倒れたのかも知ることはできない。確認するためには森に戻らなければならないわけだ」

「……戻る……」

 その言葉が楢崎の心に引っかかったらしい。「……戻りたくない人もいるかと……」

「いるだろうな。破壊された森や倒れた木を見たくないという罪悪感で」

「……僕も……同じかも……」

 また伏し目がちになって唇を噛んだ楢崎は、思い切ったように顔を上げた。「その罪悪感なんです。つまり   セールスが成功したお宅には、二度と行く気にはなれなくて。笑顔で玄関から送り出してくれたお客さんの顔を見るのが怖くて……」

「騙されたままなら笑顔のままかもしれん」

「それも、余計に怖いような気が……。お人好し過ぎて、また騙されそうですし……」

「セールスマンの中には、一度でも成功した家は『騙されやすい』とリストアップして、何度も騙す者もいると聞くが」

「……はい。僕も、そんな話を聞きました……。そんな『騙されやすい家のリスト』も出回っているとか……玄関の近くに、詐欺グループにだけわかるマークをつけておくとか」

「それも昔から聞く話だな。君は話を聞いただけか?」

「もちろんです。そこまでやったら、本当の詐欺になってしまうじゃないですか」

 やや語気を荒らげて答える楢崎の表情は、演技ではなさそうだった。

「では、同じ家に何回もセールスに通ったことはないわけか」

「はい」

 力強くうなずいた楢崎は、そこでまた眼を伏せて唇を噛んだ。「……何度もお邪魔したいようなお宅もありましたけど……。とても親切なお婆さんがお茶まで出して応対してくれて……。僕がバスルームを見ながら、あれこれ説明するのを、感心して聞いてくれて……工事の契約も……。百万円近くの工事費用で……」

「高額だな。その費用に見合う工事だったのか?」

「……計算上は問題はないはず……です。でも、本来は不要な工事箇所や余計なオプションも幾つか追加したので……割高になってるのではないかと。帰り道、契約を取れて嬉しい反面、お婆さんの笑顔を思い出すと、心苦しくて……」

「君は工事には立ち会わないのか?」

「一度もないです。セールスで他を回ってますし」

「工事後のクレーム対応は?」

「……専用の担当者がいますので。どう対応してるのかは知りません……いえ、知りたくないです」

「恐怖を感じるものは回避する傾向があるようだな」

「……いけませんか?」

「いや、恐怖は危険を察知して警告する生存本能だ。しかし、それならば、そもそも工務店のセールスマンになるのも避けるはずだが   実態を知らなかったのか?」

「ハローワークで調べたときは、ただの水道工事の作業員だとばかり……」

「ハローワークで求職したのか」

「求人雑誌も幾つか見ましたが、やはりお役所のほうが求人内容もちゃんとチェックしてるはずだし、安心できるかと」

「書類に不備がないかは『ちゃんとチェック』して受理するだろう。書類の内容と実態の乖かい 離り までチェックする手間暇をかけるか否かは知らんが」

 鼻先で嘲笑うような遼一郎の言葉だったが、楢崎もおかしそうに笑った。

「やはり、お役所仕事なんですか。『経験、資格は不問。技術は採用後の研修で取得できます』という内容だったので、水道工事の仕事をしながら技術を憶えるのかと……。昔の大工さんや板前さんみたいな職人気質の……」

「今でも、そんな水道工事業者は実在するはずだが、そうでない業者もいるのも実情だ。技術者にもレベルの差があり、資格は形式上の目安でしかない。『マニュアル通りに取り付け作業しかできない技術者』と、『修理もできる技術者』とでは能力も雲泥の差だ。部品ひとつひとつの役割や仕組みまで理解していなければ、故障原因の特定も修理方法の判断もできまい」

「……あ……なるほど。資格があっても、ペーパー・ドライバーみたいな者もいるわけですね。僕の妹も運転免許は持ってますが、実際には一年に一度も運転すれば多いほうで、交差点で右折するのも怖がってます。経験の差ですか?」

「そうだ。経験が培った技術と、机上試験で得た資格は別物だ。君の勤務先は、未熟な技術者しかいない業者なのではないかね?」

「……そうかも……」

「技術者は何人いるんだ?」

「ざっと十人ほど……大半がバイトで、すぐ辞めてしまう者も多いです」

「正社員の技術者は?」

「……たぶん……社長だけじゃないかと……」

 楢崎が曖昧な笑顔になった。苦笑を隠しているかのような表情だ。「事務の女性二人はパートですが、長年勤めた感じのおばちゃんの話によれば、先代の社長が大工の棟梁で小さな工務店として始まったとか。大手建築会社の下請けが大半でも、バブルの頃には常時二十人以上の職人がいたほど活況だったそうですが   バブルが弾けて、仕事が激減してしまって   今は新築ではなくリフォーム関連の仕事が大半だとか。下請けと違って個人の施工主さんが多いので、セールスをして注文を取る必要もあって、営業員を増やしたとか……。僕も人当たりが良さそうだと、なぜか営業員として採用されました」

「君は正社員なのか?」

「いちおう。ですが、給与は基本給プラス成功報酬なので……。基本給はパートの方と同じです。ボーナスもありませんが、バイトの技術者の方も似たような給料でしょうから」

「薄給のようだな。では、昨日のクリップボードに挟んであった書類だが、あれを用意したのは?」

「上司の営業課長です」

「古株なのか?」

「社長の弟ですが……総務課長も兼務ですし、工事の作業を除く全般は課長がすべて仕切ってます。採用面接も課長でした」

「経営の実権を握ってるようなものだな。何歳くらいだ?」

「たぶん、四十歳くらいかと」

「廃業した工務店の顧客情報をどこから入手したのか知ってるか?」

「……たぶん……元は、その工務店で働いていた人ではないかと。今、バイトの職人として働いてますが……給料が他の人より良いとか」

「バイトの面接も、君の上司が担当か。顧客情報と引き替えに賃金の上乗せをした?」

「……たぶん……」

「仕事の能力は?」

「……僕は実作業を見ないので……。でも、他のバイトの人たちの噂では……その……『無能』だと酷評で。給料が高いから、厳しい眼で見られるのかもしれませんが」

「ねたみの分を差し引いても無能なわけか」

「……素人同然だとか……」

 苦笑した楢崎がそこで思い出したように付け加えた。「あと、今、思い出したのですが、もしかしたら、他の工務店にも同じ顧客情報を渡してるかも……」

「君がセールスに行った家に、先に他のセールスマンが来ていた?」

「はい、そうです。最初から門前払いでしたが、『先月も来たでしょ』って   僕は初対面でしたが」

「そのバイトが前に働いていた工務店のセールスマンかもしれんな。顧客情報のおかげで採用されても、あまりにも無能でクビになったか   あるいは、顧客情報を手土産に転職した元社員が他にもいたのか。どちらにせよ、私は顧客情報の流出源がわかれば充分だ」

 遼一郎が軽く肩を竦めた。「君は、クビになる覚悟はできたのか」

「……はい」

 一秒だけ考えたのち、楢崎がきっぱりとうなずいた。「明日、退職願を出してきます。そしてハローワークで罪悪感のない仕事を探そうと思います」

「またハローワークか」

 遼一郎が切れ長の眼を毛利へ向けた。毛利は正座したまま、遼一郎と楢崎の会話を聞いていたのだが、ハローワークと聞いて、口を挟みたそうに身を乗り出している。「毛利は異議がありそうだな」

「率そつ 爾じ ながら」

 毛利が両脇の床に拳をつき、座ったまま膝を浮かせて前に進んだ。「我が 見けん を申し上げますと、楢崎さんは役者に戻るべきかと存じます。生活のために働くのは仕方がないとしても、役者の才能を捨ててしまうのは、まことに惜しい。歌手としての才能も   」

「いえ、歌手の才能はないです」

 楢崎が慌てたように手を大きく振った。「僕は歌えない んです」

「……今、何と?」

 毛利が怪訝そうに耳に手を当てた。

「僕は歌えないんです」

 楢崎が繰り返した。





    4





 桜田門の近くにある高級フランス料理店で昼食を終えた曽我部綱彦は、オリーブ色のコートを翻しつつ、降り散る桜吹雪の中を警視庁本庁舎へと歩いているところだった。桜田濠の水面にも桜の花びらが浮かび、陽射しは穏やかで暖かい。食後の散歩にも優雅さが当然だと考える綱彦は、ゆったりとした足取りだ。

 しかし、その足取りがふいに止まり、次に早足になったのは、制服警官が守るゲート前に少年が経っているのが見えたからだった。

 遠目には少女にも見えるほど優しい顔立ちに、大きい眼。ダッフルコートに包まれた体つきは華奢だが、まだまだ成長途中の十七歳た。手足が大きいから、成人の頃には百八十センチ近い長身になるだろう。名前は遠野美よし 雪ゆき    あの遠野遼一郎の息子だ。

 耳からイヤホンのコードを垂らし、左手で赤い表紙の本を広げている。右手で握ったシャープペンで書き込みをしているから、おそらく赤本、大学別の受験用問題集だろう。綱彦も高校三年生の頃に受験対策で使ったものだが、美雪はどこの大学を志望しているのか。

「警視庁のゲート前は、受験勉強にふさわしい場所だとは思えないが」

 近寄りながら綱彦が声をかけると、美雪が顔を上げ、イヤホンを耳から外した。

「……なんだ、おじさんか。こんにちは」

 失礼極まりない挨拶をしただけで、美雪はまた赤本に視線を戻してしまった。なんという無礼。遠野遼一郎も無礼千万な男だが、祖父母に育てられた息子も同様らしい。

「なぜ、ここで受験勉強を?」

 腹立ちを堪えて尋ねると、

「時間潰し」

 美雪が問題集にペンを走らせながら答えた。「人と待ち合わせてるから」

「誰と待ち合わせを?」

「高野警部。進路について相談しようと思って」

「……警察官になるつもりなのか?」

「選択肢の一つ。大学進学は大前提だけど、学部の選択には、卒業後の進路まで考えるべきだと思って」

 そこで美雪が、ふと顔を上げた。「おじさんも国家公務員試験を受験したんだよね?」

「もちろんだ」

「第Ⅱ種だよね? 準キャリア組で最初から巡査部長。順調なら四年後には警部補」

「失礼だな。僕は第Ⅰ種だし、そもそも準キャリア組など、僕が受験した頃にはなかった」

「……そうなの? だって、警部補でしょ? 第Ⅰ種はキャリア組で最初から警部補で翌年には警部、三年後には警視に昇進するんじゃないの?」

「何事にも例外というものはある」

 綱彦はそれだけ答えた。一人息子を将来の曽我部グループ幹部候補と考えていた父親が権力を駆使し、警察を辞めさせるべく裏で画策をしていたなどという複雑な事情を、十七歳の少年に説明するのは愚痴をこぼすようで大人げない。「ただし、無能で昇進できなかったわけではない。君の父親も無能で医大を退学になったわけではあるまい」

「父さんは自分から中退したんだよ」

 むっとしたように美雪が頬を膨らませた。「警察が巨大な組織で、昇進にも組織内の複雑な事情があるのはわかるけど、父さんは組織とは無縁だし、独立独歩で道を切り拓いてきたんだ」

「父上を尊敬したい気持ちはわかるが、厳密には『組織とは無縁』ではないと思うがね」

 綱彦は、まだまだ世間知らずの子供だと思いつつ、肩を竦めてみせた。「たしかに小説は一人で書くものだから、フリーランスの作家は独立独歩かもしれん。だが、その小説を発表する雑誌や書籍を発行するのは、出版社という組織だ。弱小出版社らしいが、それでも社長や編集長という上役の意向に左右されるだろう。大手出版社であれば、なお複雑になる。さらにその雑誌を流通するための取り次ぎも大きな会社組織だ。雑誌を店頭に並べる書店やコンビニも大手であれば会社組織で   」

「『要点を簡潔に』   と、僕の父さんなら言うと思うよ。要するに何を言いたいわけ?」

 世の仕組みを懇切丁寧に教示してやろうというのに、なんという失礼な言い種ぐさ だ。それもまた世間知らずゆえだろうと、綱彦は務めて冷静に説明を割愛した。

「要するに、出版業界という巨大な組織とは無縁ではない、ということだが」

「そんなの当然じゃん」

 しかし、美雪は呆れたように大きな眼を細めただけだった。「僕は商業出版の話をしてるわけじゃないんだよ。執筆中は組織とは無縁で、父さん一人だけの頭とペンだけで、小説の世界を構築している、という話をしてるんだよ」

 大きな溜息とともに「話のわからないおじさんだなあ」という独り言が、とどめを刺した。綱彦は瞬間湯沸かし器並みの怒りが込み上げたが、美雪が大きな眼を輝かせて背伸びをするように手を揚げた。

「高野警部! ここです!」

「やあ、美雪くん」

 高野警部が野暮ったい灰色のコートを翻しながら短足を懸命に動かしてゲートから出てきた。「待ったかね?」

「いえ、曽我部のおじさんが話し相手になってくれたので」

 綱彦を振り向いた美雪の笑顔には屈託がない。「それに、キャリア組なのに万年警部補でも、前向きに仕事に励んでいることもわかって、勉強になりました」

「ほう……万年警部補か」

 言い得て妙だと高野警部がこれみよがしに高笑いしてから、「では、まずは昼食に行くとしよう。美雪くんの希望は、蕎麦だったね?」

「はい。警部さんが率いる刑事さんたちの行きつけのお店を。きっと『旨い早い安い』の条件を満たしているはずだと思うんですけど」

「もちろんだとも。だが、その『旨い早い安い』は優先順なのかね?」

「はい。だって早くても不味い店じゃ、捜査に戻ろうという志気にマイナスでしょ? だから、最優先は味じゃないかと。次がやはりスピードで。それから、値段が安いに越したことはないですが、警視庁捜査一課に配属される刑事さんなら有能でしょうし、そんなに薄給とは思えないので、優先順位はさほど高くないかな、と」

「咄嗟にそこまで推察したのか。さすが遠野さんの息子だ」

 高野警部は感心したように美雪の肩を軽く叩き、「蛙の子は蛙だな」と笑いながら、美雪と連れだって去っていった。

 蛙の子は蛙   失礼さの点でも父親そっくりだと思いつつ、二人を見送った綱彦は、ふと美雪が遼一郎の実の息子ではないことを思い出した。

 そう   実の息子ではないのだ。遼一郎の弱点を探るべく、曽我部グループの優秀なニューヨーク在住の調査員たちに留学中の足そく 跡せき を追わせたのだが、報告書を読んだ綱彦は、調査を頼んだことを後悔したくなった。

 知らぬが仏、とは言い得て妙だ。知らないほうが良かったと悔やむほど辛い真実もある。

 美雪が生まれたのは、ニューヨーク市内の病院で、出生証明書や日本の戸籍に記されている母親は和泉いずみ 雪ゆき 乃の 。しかし、その名前の女性は実在しない。

 別の名前でアメリカの永住権(グリーンカード)を取得してはいるが、どちらが本名なのかは不明。十七年前当時に遼一郎が暮らしていたヴィレッジのアパートは周辺の再開発とともに建て替えられ、住人たちも離散している。それでも優秀な調査員たちは、和泉雪乃と名乗った女性が妊娠中に刺されたという事件を掘り当てた。

 治療に当たった医師たちは、辛うじて胎児を救うことはできたが、女性を救うことはできなかった。刺された際に、彼女が咄嗟にお腹の子を庇おうと体を丸めたことが、致命傷となったのだった。

 刺した犯人も女性だった。しかも日本人   そして犯行に及んだのは、ニューヨーク駐在員だった夫へ宛てた和泉雪乃の手紙を読んだからだった。和泉雪乃は夫と不倫し、身ごもった子供の認知を手紙で頼んでいたのだ。夫の裏切りを知った妻が、逆上して不倫相手の女性を刺した   こんな事件は、治安のいい日本でも起こるほど、ありふれている。不倫をした場所と刺した場所が、ニューヨークだったことがやや特殊だが。

 しかし、これが犯行の動機であれば、美雪の父親は遼一郎ではない、ということになる。そもそも遼一郎が女性と恋愛をすること自体が、ありえない話だと綱彦も思う。よって美雪の実の父親が、犯人の夫であるのも確かだろう。

 出生証明書には、父親は遼一郎だと記載されている。そして救われた胎児、美雪は保育器から出られるようになると遼一郎に連れられて退院した。さらに、数ヶ月後、遼一郎は美雪とともに帰国、美雪は祖父母に育てられることになり   そして、現在に至る。

 枝葉末節は不明な部分が多いが、これが真実だ。美雪は父親が遼一郎だと信じたまま、未だに真実を知らない。母親の和泉雪乃が殺されたことさえ知らない。

(……O God Almighty, blessed Saviour……)

 ふいに、テニスンの『イーノック・アーデン』の一節がまた脳裏を過よ ぎった。おお全能なる神よ、聖なる救世主よ   我に強さを与え給え。

 彼女に告げず、決して彼女に知らしめず、彼女の平穏を壊さざるよう我を助け給え

 なぜか、代名詞の「彼女」が「美雪」に変わったように思えた。

 祈るまでもない。こんな真実は知らないほうが心の平穏を保てる。綱彦とて、どれほど遼一郎が嫌いでも、どれほど美雪の態度が癪に触っても、美雪に知らせようとは思わない。誰の得にもならず、諸もろ 刃は の剣つるぎ も同然だ。美雪を傷つけると同時に、剣を振り下ろした自分をも傷つけるだろう。もしも傷つかぬ者がいるとしたら、人の心を持たぬ冷血漢だけだ。

 しかし   と、綱彦は考えた。美雪は、知りたがっているかもしれない。綱彦が調査員に頼んだのは遼一郎への敵愾心と好奇心からだったが、美雪にとっては出生の秘密でもあるのだ。知りたくてたまらないだろう。

 遼一郎が隠しているのは、美雪がまだ十七歳だからか。大人になっても辛い真実だが、受け止められそうな年齢になるのを待っているだけか。秘密にしても、美雪が大人になれば、自分の足でニューヨークへ行くこともできるのだが

(……ニューヨーク……)

 そして、アーデン   綱彦はゲートへ向き直ってから、ふと足を止めた。イーノック・アーデンではない。ニューヨーク市警のドイル・アーデン警部だ。

 年齢から考えて、遼一郎がニューヨークにいた当時は、すでに警官だったのではないだろうか。調査員の報告書には一度も名前が出なかったが、捜査に当たった分署の刑事の一人だったのなら   遼一郎と知り合ったのは、そのときかもしれない。

 いや、そうに違いない。綱彦は確信していた。成田空港から辺鄙な東京都下にあるボロ屋敷まで連れていくほどだから、懇意なはずだし   それに……。

(   そうか……)

 ゲートの遥か上に、TVニュースでもお馴染みの三角柱型の警視庁庁舎が陽光を弾いていた。UVカットの高機能レンズでしつらえた眼鏡でも、可視光線はカットしないから、まぶしさは同じだ。

 眼を細めて澄み切った空を見上げてから、綱彦は足を速めてゲートへと歩いていった。深い確信とともに   そう、あのドイル・アーデンこそが、遼一郎のニューヨーク時代の恋人だったに違いない。





    5





「歌えないんですよ」

 楢崎は苦笑するでもなく、淡々と告白した。「人前では 」

「自分一人だけなら歌えるのか」

 遼一郎も驚きもせず、冷静に質問している。「視線だけでなく気配も駄目なのか? 壁で囲まれた空間に一人だけなら歌える?」

「……はい。そうです」

 逆に楢崎のほうが驚いたようだった。目を丸くして遼一郎を見てから、大きくうなずいた。「よくおわかりで……説明してもわかってくれない人が多くて   『目をつぶって歌えばいい』と言われても、周囲に人がいたら駄目なんですよ」

「作家の何割かは、君と同じだからな」

 かく言う遼一郎も、元は布団部屋だった狭い書斎に籠もって執筆している。そんな理由があったのかと、篤史は今更ながら納得したのだが、遼一郎は質問を続けている。「小説は最終的に印刷された後に読者が手にするから、それでも支障はない。だが、人前で歌えない歌手は、レコードやCDだけでしか発表できないことになるが?」

「その通りです。歌番組の出演やコンサートなどは全部無理です」

「……率爾ながら……」

 唖然と聞いていた毛利が授業中の生徒のように手を挙げた。「では、あのTVドラマで路上で弾き語りをしていたのは……」

「あれも僕一人だけで撮影してもらったんです。狭く真っ暗なスタジオで街灯に見える照明を一つだけ点けて撮影した後で、実際の街の映像と合成して」

「そうだったんですか。じゃあ、主役の女の子が聴いてるのは……」

「あれも後からの合成です。といっても、主演女優さんの要望で、僕が先に撮った歌を本番前に何度も聴いて、本番でも流しながら撮影したそうですが。歌詞のどの部分が心の琴線を刺激したのかといった細部まで演じるために」

「なるほど……」

 毛利が何度も膝を叩きながらうなずいた。「そりゃそうでしょうな。想像の歌だけで歌声に聴き惚れている表情を作るなんて難しいでしょうからね。でも、合成の映像でも良いシーンだと思った視聴者が多かったんですから、大成功だったんじゃござんせんか」

「……大成功だったから、問題なんですよ」

 楢崎が暗い溜息をついた。「ただの挿入歌だったから、僕も了解して歌ったのに、レコード化されてヒットしてしまって……。人前では歌えないと何度言っても、マネージャーは『そんな弱気じゃ駄目だ』とか説教するだけで歌番組の依頼を受けてしまうし   気力の問題じゃないのに」

「でも、歌番組でちゃんと歌ってたじゃないですか」

「あれは、いわゆる口パクです。いちおう声を出して歌ってはいましたけど、事前に録音しておいた音声を流し、マイクの音声は、流さない。裏方で機材を操作するスタッフさんたちにも厳重に口止めして   もっとも、口パクは『よくあること』らしくて、奇異な目で見られることもなかったですが」

 ふたたび楢崎が暗い溜息をつく。「でも、ほんの一呼吸でもずれたらバレますから、綱渡りでしたよ。一時的な流行でしかないから、いつか元の役者稼業に戻れる、それまでの我慢だと自分に言い聞かせて乗り切ろうとしたのですが、歌の仕事ばかり増えて、ついには歌がメインの舞台の企画まで   もう限界でした」

 マネージャーだけでなく事務所の社長に直談判もしたが、決裂   事務所を辞めたのだという。辞める条件が「一切を秘密にする契約書に署名すること」だったという。

「秘密保持契約か」

 遼一郎の眼が鋭くなった。「範囲は? 歌の件だけじゃなく、事務所に在籍していた間の全行為に関してか?」

「ええと……契約書に書いてあったのは、『在籍期間中の全芸能活動』でした。だから……今までにお話したことも、契約違反になるんですよね?」

「それを事務所が証明しなきゃならないが。具体的には私たちが君から聞いたと証言するか、あるいは君が洩らしたと自分から証言するか」

「……そうなんですか。いまいち契約の意味がよくわからなくて……。わからなくても、事務所を辞めるしかないと切羽詰まってたのでサインしてしまったんですが。洩らしたら、警察に掴まるとかは?」

「民事訴訟だ。警察は関係ない。もともとは転職先に企業秘密を手土産にされるのを抑止するためのものだ。ただし、訴えられなくても、秘密を簡単に周囲に洩らすような人間だと噂になれば、他の事務所は君を雇うのを躊躇するだろう程度の抑止力はある」

「……なるほど。まあ、どのみち事務所を飛び出した時点で、他の事務所に移ろうとは考えませんでしたが」

「だからハローワークへ行った」

「そうです」

 楢崎が笑った。肩の荷を降ろしたような明るい笑い声だった。「とにかく仕事を見つけないとメシを食えないと……」

「歌の印税は? 一曲だけでもヒットしたし、作詞作曲も君では?」

「……はい。僕が作った歌です」

「以前から歌を作るのが趣味だった?」

「はい。歌の数だけなら沢山ありますが……それも誤解の元で」

 困ったように首を振りつつも、楢崎は吹っ切れたかのような笑顔のままだ。「自分のための歌で、発表するつもりはないんですよ。小説だって、発表するつもりはなく、ただ書きたいから書くだけの人もいるでしょう? たとえば日記代わりにとか   そう、僕の歌も日記代わりのようなもので、個人的な秘密と同じなんです」

「個人的な秘密なのに、TVドラマで歌ったのは?」

「……あれは……楽屋でちょうど一人だったときに、ギターの練習を兼ねてこっそり歌ってたら、脚本家の人が聞いてて、『その歌のほうがいい』と言い出して……。当たり障りのない曲だったので了承したんですが……他の曲は駄目なんです。絶対に   絶対に公表できない曲なんです!」

 しどろもどろで、それでも最後は吐き出すように楢崎が言い切った。「公表したら、人に迷惑がかかるんですよ」

「人妻への密かな恋心でも歌ったか。周囲の人が聞いたら、彼女だと特定できるような描写の歌詞で」

 遼一郎の声に、楢崎が驚愕したように目を見開き、遼一郎の顔を凝視した。

「そう……それに近いんです。誰にも知られてはいけない歌で……」

「墓場まで持っていきたい歌か」

「……墓場まで……?」

 おうむ返しにつぶやいてから、楢崎が大きくうなずいた。「死んで埋葬されるまで、ということですね。はい、その通りです」

「ならば、とことん貫き通せばいい。毒を食らわば皿まで。嘘をつくなら墓場まで」

 世間話でもするような気楽さで、遼一郎が肩を竦めた。「それより、歌の印税だが、作詞作曲が君なら、まず著作権印税を受け取れるはずだ。原盤印税はレコード会社や君が所属していた芸能事務所の契約によって変わるが」

「いちおう、もらいました。でも税金でごっそり取られてしまったし、これまで貯金らしきものがなかったので、定期預金にして手を付けてません。非常時のために」

「堅実な考え方だな。では、今後もハローワークで堅気の仕事を探すわけか。役者に戻る気は?」

「それはもちろん戻りたいです。でも、できれば基礎から稽古をし直したいし、ミュージカルは無理だし……。それこそアマチュアに毛が生えた程度の小さな劇団から大きな劇団まで選択肢はありますが、休みの日に観劇して、自分に合いそうな劇団を探しているところです」

「実に堅実だな。そこまで覚悟ができているのなら、私が助言する必要はもはやなさそうだ」

 遼一郎はこれで用件は済んだとばかり、冷めたコーヒーを飲み干し、ふたたび新聞を広げて読み始めている。

 楢崎はあっけに取られたように床に座ったまま見上げていたが、ふいに、

「ありがとうございました」

と声を張り上げてから、深々とお辞儀をした。床に頭をぶつけそうな勢いだ。「覚悟ができたのは、僕の話を聞いてくださったからです。理解してくださった上に、貴重な助言までいただきました」

「助言などしていないが」

「いえ、いただきました。『嘘をつくなら墓場まで』   この言葉も、僕は墓場まで大切に持って行こうと思います」

「物好きだな」

 遼一郎は新聞に視線を向けたままだ。

「拙者からもお礼を申し上げます。貴重なお時間を割いていただきまして、まことにありがとうございました」

 毛利も同じように頭を床につけて礼を言うと、平身低頭したままの楢崎の肩を軽く叩いて立ち上がった。楢崎も立ち上がったが、重い雲を強風が吹き飛ばした後のような晴れ晴れとした笑顔だった。毛利に促されて居間のドアから出ていく前に、ふたたび遼一郎に頭を下げ、その後は振り返らずに廊下を玄関へと立ち去っていった。

「お邪魔しました。では、これで失礼します」

 そんな挨拶を残して門へと走っていく楢崎の姿を、篤史は居間のテラス窓越しに見送った。楢崎の足取りは、意気揚々として見えた   篤史の眼には。

「……さっき、『人妻への密かな恋心』って言ってたけど……。人妻じゃなさそうだね」

 ぼそりと、独り言のようにつぶやいてみる。「毛利さんがいたから?」

「そうだ」

 遼一郎の声が即答した。「近い比喩に変えた。おまえも気づいたか」

「やっぱり」

 篤史はかすかな胸の痛みとともに、遠い昔を思い出していた。短く刈った髪、浅黒い肌、いつもカーボン・ブラックの色鉛筆を持ち歩いていた青年   美大生だった頃の同級生、仁に 科しな 勝まさる だ。香川県高松出身で、当時は六畳一間のアパートで暮らしていたが、その当時から信のぶ 恵え という恋人がいたから、篤史は遠慮して訪ねたのは一度きりだった。

 密かな恋心だったのは、楢崎と同じだと思う。大学卒業後、勝は高松に帰り、今は実家が経営する温泉旅館を切り盛りし、信恵と結婚した。結婚式に篤史も出席したし、心から祝福したが、学生時代の秘めた思いは封印したまま、墓場まで持っていくべきものだろう。

 嘘をつくなら墓場まで

「でも、隠してただけで、嘘はついてないよ」

「一度も? 隠すために『嘘でない程度の事実』で誤魔化し、一時しのぎをしたことは? それでも自分の心に嘘をついていないと言えるかね?」

「……そうか……。言えないかも」

 篤史は素直に認めるしかなかった。秘密を守るために、どれほど世間と自分を誤魔化し続けてきたことか。

「今日は朝から気分がいいですねえ」

 毛利が浮かれた足取りで戻ってきた。「センセ、コーヒーのお代わりはいかがですか?」

「もらおう」

「ではさっそくご用意を。そういえば、あの書類   楢崎さんが昨日置いていった書類ですが、どうなさるのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」

「楢崎君の堅実さを見習って、消費生活センターに連絡する」

「……堅実ですな。警察には? 高野警部とか……」

「殺人事件担当の捜査一課に連絡しても無意味だろう。そもそも事件性がない」

「詐欺ではないんですか?」

「残念ながら、現行法では立証が困難なケースが多い。仕入れ値が五百円の品を六百円で売ろうと五千円で売ろうと、商人の自由だ。セールで値下げしたとたん詐欺扱いされたら商売は成り立たん。いちおう今回のような水道工事もセールスマンの訪問販売と同じ扱いになるから、クーリング・オフ制度の適用範囲ではあるが」

「たしかに……着物の悪徳商法でも似たようなことを聞きますが」

 毛利は納得できないようだ。「でも、その書類に記されているお宅は、被害者候補でもあるわけで……消費生活センターから警告してもらうわけには?」

「それも無理だろう。ああいった公的機関は『こちらから一般市民に連絡をしない』ことを厳守しているからこそ、詐欺師と区別できる。詐欺師の中には消費生活センターを詐称して電話をかけ、言葉巧みに、手数料だのといった名目で現金を搾取しようとする輩もいるからな」

「……理不尽な世の中でござんすねぇ……」

 毛利はコーヒーカップを盆に載せながら、厭だ厭だと首を振っている。

「そういや、この屋敷のバスルーム、前に工事したのは本当なの?」

 篤史が居候したときから、バスルームは古かったし、壁のモザイクタイルもひび割れていたのを思い出す。バスタブの形も今風ではなく、元は金色だったらしい猫足つきのアンティークで、洋館を建築した子爵の趣味なのかと思い込んでいたのだが

「もちろんだ」

 遼一郎は新聞から眼を離さなかったが、即答が返ってきた。「十六年   もう少しで十七年前になるな。この屋敷に引っ越してすぐの頃だ。バスルームの配管が老朽化していたのでね。配管を新品と交換しただけだ」

 十七年前   篤史はまだ中学生だ。今の美雪よりも幼かった頃   そしてその美雪がまだ赤ん坊で、遼一郎に連れられてニューヨークから帰国した直後か

「配管の交換ですか。じゃあ、新品の配管より、工事業者のほうが先に駄目になってしまったわけですね」

 呑気な毛利の声を聞きながら、篤史は窓を振り返った。風が強まったのか、霊園からの桜の花びらがまた、花吹雪のようにひらひらと庭に舞い落ちていた。





   Epilogue





 その電話がかかってきたのは、その夜   篤史が風呂から出て、寝室に戻ってから数分後だった。バスルームからは遼一郎がシャワーを浴びる水音が聞こえてくる。

「……はい、遠野ですが」

 パジャマのボタンを留めつつ、サイドテーブルの子機を篤史が取ると、

「良かった、篤史か」

 聞こえてきたのは、綱彦の声だった。「僕だ。今、大丈夫か?」

「……数分だけなら」

 篤史は声を潜めつつ、子機を握ったままバスルームのドアを振り返った。シャワーの音は止んだが、髪や体を洗って出てくるまでに、その程度の猶予はあるだろう   いまいち自信はないが。

「では、重要な用件だけ。先日、来日したニューヨーク市警のアーデン警部だが」

「……あの人なら、もう帰国したけど」

 篤史は、ささやき声で答えつつ、不思議な訪問者を思い出していた。ドイル・アーデン   ひねくれ具合と頭の切れ具合では、遼一郎と張り合えそうな男だった。

「アーデン警部と遠野の関係は?」

「……ええと、ペンフレンドだとか。文通相手」

 嘘ではない。遼一郎もそう言った。だが、これも嘘ではない程度の事実に過ぎない。篤史の勘では、遼一郎のニューヨーク時代の恋人が、今はドイルの恋人なのだ。

「文通? それを信じたのか?」

 呆れたような綱彦の声だったが、時間がないことを思い出したのか、息も継がずに早口で言った。「アーデンは、和泉雪乃が刺された事件での担当刑事だったに違いない」

「……ええと」

「年齢的にも辻褄が合う。事件を捜査するうちに遠野と知り合い、恋人同士になった。だから、事件の記録が曖昧なんだ。しかも、遠野は日本に帰国してしまった。アーデンも他の事件の捜査で多忙な日々を過ごすうちに十数年もの歳月が過ぎてしまった。今回、高野警部の招待で、遠野と再会を果たしたわけだ」

 早口で捲し立てる綱彦の声に、篤史は唖然とするしかなかった。まるっきり見当違いの推理なのだが   綱彦は思い込みも激しいのだ。

「……あの……でも、遼一郎は初対面だって言ってたよ。文通してただけで」

「だから、そもそもペンフレンドという説明自体が嘘に決まってる」

 綱彦の辞書には『思い直す』という言葉はないらしい。「まあ、アーデンの思惑はともかく、僕はあの子に真実をばらす気はないから、安心したまえ。『イーノック・アーデン』を引用するまでもない」

「……イーノック・アーデン……って、誰?」

 篤史の知らない名前だ。苗字が同じだから、ドイルの兄弟か親戚だろうか?

「架空の人物だ」

 ふいに背後から遼一郎の声が聞こえ、篤史はベッドから飛び上がりそうになった。「十九世紀イギリスの詩人、テニスン作の物語詩のタイトルでもある」

 篤史が恐る恐る振り返ると、バスルームをまとった遼一郎が、タオルで髪を拭きながら歩み寄ってくるところだった。

「……あ……あの」

 子機を握ったまま、篤史はなんとか説明しようとした。「ええと、綱彦は……真実をばらす気はないって……」

 しかし、遼一郎はさっさと子機を奪い、

「残念だが、イーノック・アーデンは死に際に居酒屋のミリアム婆さんに打ち明けてしまった。墓場まで嘘をつき通せなかった。引用するなら、別の詩にすべきだな」

 冷たい声でそう言うと、通話ボタンをオフにしてしまった。

「……打ち明けたの?」

 なぜか篤史の口から、そんな疑問が飛び出した。依然としてイーノック・アーデンがどんな人物なのか、さっぱりわからなかったが、「墓場まで嘘をつき通せなかった」ことが心に引っかかったのだ。

「そうだ。看病してくれたミリアム婆さんの優しさに心が緩んでしまったのかもしれんし、ミリアム婆さんも『口外しない』と誓いはしたがね」

 答える遼一郎の横顔は、怒ってはいないようだった。まだ濡れた髪が、淡いランプの灯りで艶を放っている。

「……そうか……」

 篤史はただうなずくしかなかった。どんな詩なのか、イーノックの嘘が何なのか、依然として謎のままだが、嘘を貫き通すのは、難しいのだろうか? いや、看病される前に死んで墓場に埋葬されてしまえばいいのでは   もっとも、それが一番難しいのだが。

 一気に骨壺の中の遺骨になれれば、どんなに幸せか。思わず左手首の包帯に視線を落とすと、その包帯を遼一郎の手が掴んだ。

「抜糸は来週だったな」

「……痛……」

 左手首に走る痛みに、篤史は顔をしかめた。数え切れないほど繰り返されても慣れないのは、現実だと確認できるからか。

 そのままベッドに押し倒され、胸に遼一郎の重さと体温を感じると同時に唇を塞がれた。息も止まるような熱いキス   その合間にも左手首は強く握られたままだった。だが、傷口はまだ開いていない。

「……延ばして」

 唇が離れたとき、篤史はささやいた。

「何を?」

「抜糸の予定   来週が再来週になるくらい」

「ご要望とあらば。伊藤に叱られそうだが、それもまた面白い」

 遼一郎が喉の奥で笑いながら篤史の首筋に唇を這わせ、篤史の左手首を握った右手の力を強めた。

「もっと強く」

 そんな催促まで篤史の口をついて出たのは、もっと強い痛みを感じたいからか。

 抜糸の予定が延びるということは、すなわち、篤史が二十四回目の自殺を決行する日を延期するということでもあり、その分、生きている時間が長くなるということでもあり、遺骨になるのを先延ばしにすることでもある。

 しかし、今の篤史は痛みを引き起こしている力   左手首を握った遼一郎の、手の力だけを感じていたかった。





(了)





あとがき




 毎度ご愛読ありがとうございます。「厄介な連中」シリーズの新作をお届けします。

 やっとアルフレッド・テニスンの『イーノック・アーデン』を引用できる   と肩の荷を一つ降ろしたような気分になった本書   そう、「ホーリー・アップル」シリーズで、ドイル・アーデンの名前を考えたときから、「いつか引用したい」と思っていたのが、この物語詩だったのでした。

 妻を残して旅立ち、不測の事態で十年も帰郷できない間に、夫が死んだと思った妻が他の男と再婚して幸福に暮らしているのを知ったとき、どうすべきなのか   といった主題の物語は古今東西を問わず散見できますが、イーノック・アーデンの場合は、加えて無人島に流されたという点で、孤独な十年間を過ごしてきたわけです。だからこそ奇蹟的に救助されたとき、妻と再会できる喜びを、より大きく感じたことでしょうし、その後の絶望も大きかったことでしょう。

 翻訳書は数多ありますが、私の拙い訳で詩のイメージのほんの一部でも汲み取っていただけるでしょうか。

 閑話休題   作者の思惑はさておき、本書の「嘘をつくなら墓場まで」というタイトルそのままの物語を、お楽しみいただければ幸いです。





二〇一六年八月        柏枝真郷





ACORN vol.7

厄介な連中 17

嘘をつくなら墓場まで

   同人誌発行日   2016年 8月 12日

   Kindle版発行日  2018年 1月 15日

  著者   柏枝真郷

  発行者  ACORN

  http://www.kashiwae.com/

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